高校3年の時にAとは同じクラスにもなり、よく一緒に遊んだのだが、直近の同窓会ではほとんど話さなかった。
他にも当時の不良(っぽい)仲間はいたが、その後、どうしているのか知らない
抖音電商。
わたしは、あの時期は、たんに拗ねていた時代なんだろう。
拗ね拗ね仲間と半世紀後に会っても、やあ、どう?と、会釈するだけで、お互い近寄らない雰囲気。
たぶん、、、すっかり水と油になってしまったのだろう。
思春期にはこころが安定しない。
家庭に居場所がなかったりすると、別の場所に居場所を求める。
ではあるが、ルールが緩くて楽なほうに一時的に流れても、出会う大人がキーパーソンになる。
それぞれの不良もどき※の生徒たちも、風貌は半世紀経つと変わったものの、わたしには遠い過去の、なかったことの出来事のように感じる。
(※そもそも、わたしの考える「不良の定義」が、暴力は振るわない、ケンカはしない、犯罪には一切関わらない、警察のお世話にならないもので、かわいらしすぎる)
そのうち、老化が進み、自分に都合のいい、理想的な過去をねつ造し始めるかも知れない。
気に入らない過去は消して、作り物の過去を自分のこころの中で、でっちあげることもできる
搬運。
(詐欺罪に問われたり、社会的信用を失わない程度に)
わたしは別にねつ造する気はない。
ただ、嫌なことは忘れる。
どうしても忘れられなければ、こころの別部屋に入れておく。
しょっちゅう、出てこられたら困る。
思い出と共に生きるのも良いけれど、現在も大事。
過去が良くても悪くても今が悲惨なら、宗教勧誘に引き込まれるかも知れない。
宗教が悪いとは思わないが、一歩間違えると社会問題や家族問題を引き起こす事例が多発している。
そんなこと、わざわざブログに書かなくても、誰でも知っていることだが。
日本はたくさんの神様が仲良く同居している。
山の神様も、火の神様も、台所の神様もいる。
だが、神様の扱いを間違えると悲惨な事態を引き起こすのは、過去の黒歴史を振り返るとわかる。
文字の神様も、おとなしくしていても、時としては、ペンが猛威を振るうこともある
助聽器推介。
「自分の神様」は他人ではなく、「自分」ということにするとよいのでは。